いろいろな権利についてちょっと考える。

 見たくない表現に触れない権利というものが主張されているそうです。
 権利という言葉について、特権とか主張して当たり前のこと、などというイメージがあるみたいですが、もともとはそうではない、ということをまず考える必要があります。
 そして、権利というものは時代や社会情勢などによって移り変わるものである、ということです。

 たとえば、基本的人権などというものが認識されるようになったのはフランス革命以降ではないでしょうか。
 そして、権利という言葉はrightsの訳語として明治時代ころに作られた言葉だそうです。当時は権理という訳語もありましたが、現在では権利に統一されています。

 で、訳語というからにはもともとのrightの意味を知らないといけないわけで、辞書を見てみると正しい、真実、正義といった意味がまず出てきて、古い使い方として真実、真正がありました。
 権利というのは、ここからの派生ということになります。rightsの意味は法的、財産的権利が一番にきて、やはり正義、公平、真実といった意味合いが出てきます。

 つまり、権利というのは正しいものでなくてはいけない、ということです。
同時に正義を守るためのものなわけです。権利があるから守られるのではなく、正しいものを守るために権利があるのです。
 この順番、けっこう重要です。

 だから人権を守れ! よりは弱い立場の人を守れ、保護しろ! というのが本来の形なのだと思います。

 それで、最近はいろいろな権利が主張され、認められてきています。
 たとえばプライバシー。これは個人情報保護という形で表れていますね。

 それから面白いところで、自分の所有物を修理する権利。
 これはアメリカで例えばアップル社の製品などについて、持ち主が分解修理を禁じているのは間違っている、などとして海外で訴訟が起こされているもので、今まさに主張中、発展中の権利です(笑)。
 認められるかどうかは、裁判の結果によりますが、間違いなく日本にも影響があります。
 これが認められると、パソコンなどによくある、「このフタを開けたら保証がなくなります」などの注意書きにも規制が入る可能性が出てきます。

 修理する権利を奪うということになってしてまいますからね。メーカーの既得権益がだいぶ弱くなります。
 私はこちらは肯定します。メーカーの一方的な主張ですからね。規格にあった部品を使い、正しい手順、道具で行う自分での修理を否定されているわけで、気持ち悪いです。
 具体的には、パソコンのメモリやドライブ類の交換くらいさせてくれよ、と思います。

 それから見たくない表現に触れない権利。
権利を主張するのは自由なのですが、これはまずいんじゃないかと思います。なぜかというと、これは表現の自由の否定につながるからです。
 表現の自由というのは、みんなで議論し、主張し、話し合って決めようねという民主主義の根本的権利です。言いたいことを言えないのでは、民主主義は成り立ちません。
 ですから、「私はそれを認めない」という主張はできますが、「私にそれを主張するな」とは言えないのです。だって、国家の指導者にそれを認めたら、現在のロシアや過去のナチスドイツ、戦前の日本のようになってしまうでしょう。
「私に都合の悪いことは表示するな。掲載するな」
 というのを許容することですよね。見たくない表現に触れない権利。
というわけで、こちらは私は否定派です。
 今後、何かの間違いで声高に主張されるようになっても、裁判になればあっさりと否定されることでしょう。

 この手の新しい権利の主張はしばしば現れます。報道の自由もその一つです。
しかし、報道における情報源の秘匿は認められた権利ですが、常にではありません。
 裁判などで提出を求められる場合は、それに従う必要も出てきます。
 つまり、裁判による司法での必要性が情報源の秘匿の必要性を上回る、と判断されるのです。(この必要性は正義、正しいということになりますから、権利ということです)

 当たり前ですが、権利を主張する場合はどこかで他者の権利とぶつかります。
そのときに他者の権利とどちらをより尊重するべきか、が社会や司法により比較され、判断されます。

 プラハイバシーについては個人の自由と企業などの業務上の取り扱いの問題。これは今の時代個人の方が強いのはなんとなくわかると思います。今は個人の権利を重視する時代です。そういう時代になったから認められた、ということです。

 修理する権利についても、個人の所有権と企業の一方的な主張です。所有権というのはとても強い権利ですので、これはおそらく認められていくことでしょう。

 それに対し、見たくない表現に触れない権利。これは比較する相手がもっとも大事な「表現の自由」そのものですからまず認められることはないでしょう。これを認めると、国家のみならず、各種団体や事業者でも独裁の権利を認めることになりかねないですし。
 まあ、あくまでも個人の意見ではありますが。

 これからもいろいろな権利が主張されると思いますし、認められるものも、認められないものもあると思います。
 でも、それが妥当な認められるものかどうか、ちょっと考えてみるのも面白いのではないでしょうか。

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